全国で話題になった吉野ケ里遺跡の石棺墓
- 日々の事
世紀の発見か!…と全国で話題となった、佐賀県の吉野ケ里遺跡の石棺墓。
大の考古学ファンで、個人的にすごく期待していたのですが、
期待された人の骨や副葬品は、発見されませんでした。
発掘前は、やはり卑弥呼の三文字がちらつき、
全国の考古学ファンもかなり期待されていたと思います。
もしも、当時(西暦238年)の中国(魏)から邪馬台国に贈られた銅鏡100枚の一部、
そして卑弥呼に贈られた金印★親魏倭王(しんぎわおう)印。
この二点が見つかれば、吉野ヶ里遺跡は、間違いなく邪馬台国に認定されたと思います。
金印と言えば、日本の古代の歴史に登場する2つの金印があります。
「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)印」と「親魏倭王(しんぎわおう)印」。
この2つの金印については、混同されることも多いようです。
また、「漢委奴国王印」は、学校の教科書に掲載されるくらい有名ですが、
「親魏倭王印」のことは、知らないという人も多いかもしれません。
漢委奴国王印は、西暦57年に中国の「後漢」王朝から、
「倭」とよばれた日本に存在した「奴国」の「王」に贈られたものです。
中国の史書『後漢書』に、光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に印綬を与えたことが記載されています。
なんと地元、東区志賀島にて江戸時代に発見されているんです。
今から2,000年ほど昔のこと、弥生時代の福岡平野一帯は奴国(なこく)とよばれる国でした。
特に、春日市域では弥生時代中期から集落が急増し、奴国の中心地として成長していったことが、
遺跡の発掘調査で裏付けられています。
とりわけ、1899(明治32)年、春日市須玖岡本遺跡が発掘され、考古学上場所的には通説となっています。
親魏倭王印は、西暦238年もしくは239年に「魏」と呼ばれた中国の王朝の烈祖明帝(れつそめいてい)、
もしくは斉王が、「倭の王」つまり日本の王に贈ったという記録が、
『三国志』の中の「東夷伝倭人条」部分、いわゆる★『魏志倭人伝』に残っています。
ここで言われる倭王とは、魏の都へ貢ぎ物を送った邪馬台国の卑弥呼のこと。
印綬は邪馬台国に対して授けられました。
一方、「親魏倭王印」は「倭王」つまり「日本の王」に贈られた印綬です。
邪馬台国の卑弥呼は、日本を代表した王として認識されていました。
奴国があった時代から約200年後、日本国内におけるいくつかの国の統合が進み、
邪馬台国が中心的な存在になっていたようですね。
冒頭に述べましたように、吉野ヶ里遺跡で今回発見されなかったことは残念でしたが、
考古学はロマン的要素が多分に含まれており、やはりまだ不明な状態が、居心地がいいのかなと…
私なりに、自分を納得させていますが……
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